ナラティブ(Narrative)とは
認知心理学のメンタルモデルの中でも屈指の「定義が難しい概念」である「ナラティヴ」という言葉。
2年前くらいのマーケティングやバズ用語として聞く機会が増え、海外では爆発的に広まっている言葉でこれからの流行にもなりそうです。
心理学でのナラティブセラピーが一番有名な単語っぽいですが。ナラティブは専門用語ではないので、いろんなナラティブがあります。
ナラティブという言葉の意味は「物語(Story)」で、長らくそう訳されてきました。
ここ最近は、その訳語が見直され、定義がおかしいということで「ナラティブ」とそのまま使われるようです。
(訳語が無いというのは、例えば日本語の「可愛い」はあるけど、ギャル語の「カワイイ」が、海外でそういう文化がなく適切な訳語がないこと)
情報デザインでは「固定され与えられるものではなく、体験を伝えるために選ばれた情報の集まり」といった感じに習うもので、日本語には概念はあるものの、それに合った言葉がありませんでした。
つまりはっきり言えば、学校で習うような概念ではないのですが・・・。
始まりも終わりも、決まっていて、誰がなぞっても同じ体験をするのが「ストーリー」。
偶発性・意外性で決まり、誰もが同じ体験にならないのが「ナラティブ」。
インフォグラフィックなどでデザインの業界では非常に重要視される概念ですが、マーケッターにとっては扱いにくい言葉。
また、コンテンツ設計手法で競争しているゲーム業界では、この概念を利用したゲームデザインというのが研究されてきました。
「自由度」ともいうんでしょうか。
決められたシナリオ上で正解を掴まなければ進まないゲームではなく、ドラゴンクエストなどで次に何をするのかプレイヤーが決められるというもの。プレイヤーはストーリーを無視して好きなように考え、偶発的にアイテムを拾い、複数のシナリオを同時進行していく。人ぞれぞれの進め方があり、人それぞれに思い出がある。
美しいCGや重厚なドラマの背景設定や世界観。
それらが究極的に進化してしまったゲームデザイン業界では、そのコンテンツ設計が「技術」の方に偏ってしまっているのですが、ここへきて方向性が見直されてきているというわけですね。
情報デザイン&コミュニケーションデザインでは、情報を正しく適切に扱うことが優れているとされます。
情報は多ければいいのか、物理法則などのコモンセンスは徹底されなければいけないのか。
ナラティブ・デザインとしてのアプローチは、「情報を適度に丁度良く出す」こと。
決して企業広告のような押し付けるような情報の提示ではなく。
価値判断を与え、メッセージを感じとってもらう。
例えば、優れたブログ記事なんかも、そう。
優れたコンテンツも、そう。
ライターから与えられた糸口から、体験者が自分なりの考えを探る。
普段意識しなかったことを意識する。体験者が なぜ? を繰り返していく。「なぜ」は興味を持つということ。
意味。
理由。
存在。
目や耳や口での情報のやりとりの中で、自分自身に語らい、相手のメッセージが見えてくる。
相手が大事にしているもの。それが自分とどう絡むのか。
それが物語として成立していく──。
自分ひとりでは到達しえなかった体験。
それが「ナラティブ」なんだと思います。
ゲームのようにエンディングの無い、地域の情報ポータルなんかのコンテンツ作りには、その設計思想は最適ですね。
他人の経験談。他人の共感を伴う体感。そんなものをうまく見せていければいいと思います。
今後もインターネットは広まり、世界が拡大していく中で。
そんな大きな世界で、小さな地域の情報をどう作り発信していくのか。
文化も国籍も超え、共感を得るようなコミュニケーションを発生させる人と人との繋ぎかた。
そんなデザインが望まれるのかもですね。
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